大学を卒業して、映像プロダクションに勤めました。
撮影素材をひたすら編集すること、7年間。
そのほとんどの時間は、お客様に接することよりも、画面をひたすら見つめる日々。
最初の1〜2年間は、機材を一切触らせてもらえず、諸先輩方の匠の技術を目で盗む日々。
悔しくて、悔しくて、どうやったら仕事をさせてもらえるか?必死に考えていました。
そして、忍耐力だけは認められたのか?戦力候補になるべく、お師匠がつきました。
当時の設備は1億円以上。すべてが大掛かりで、お金がかかる時代でした。
師匠に認めてもらえるように、必死にもがきました。
仕事が好きで、そして、誇りを持っていました。
そして、時代はノンリンアへ。そうです、パソコンで映像制作ができるようになりました。
その設備も3000万円も有れば、システムが動きました。
私は、古いシステムのリニア編集とフルデジタルのノンリニア編集を使いこなすハイブリットを目指しました。ここで、デジタルの扱いなら、そこそこ出来ることを知ったのです。
しかし、そこから悩みます。
優秀なお師匠を超えるもできず、センスあふれる後輩たちが突出し、中途採用では、全国放送のノウハウを持つ方々が、頭角をあらわします。
生え抜きであることを誇りに思いながらも、技術と経験のなさを痛感していました。
やがて、自分は会社の、あるいは誰かの役に立っているのか?自信をなくしていきます。
焦るだけではいけないと、もっともっと精進するために転職へ。
数社を渡り、福岡市インキュベート施設で独立。
「是非、作って欲しい」と自分を信じて言葉をかけてくれるクライアント。
大変恐れ多く、大変ありがたい言葉です。
映像制作は、手順や流れは想像しにくく、出来上がりはさらに困難を極めます。
出来上がって、始めて資産価値がわかります。
クライアントにとっては、一種の賭けでもあるのです。
それでも、仕事を依頼してくださるクライアント。
誰かの役に立っているかもしれない?と少しだけ自信を取り戻し、
それも全てお師匠のおかげだと思いながらも、挨拶できずにいました。
そして、お師匠の急死。
大きな虚無感。
転職する前、日々、無力感と戦っていた私に引き戻されたのです。
私は、役に立っているのか?
心に大きな穴があきました。
とにかく、お師匠に会わなければいけない。
えぐられた大きな穴は、師匠のせいだと勝手に思いこみ、駆け込みました。
お師匠の唇を綿で拭き、体を棺に。
とても重かった。ほんとうに。
肉体的にも精神的にも重く重く私の心にのしかかり、しかし支えてくれていたのです。
涙がかってに溢れていました。
そして、止まらなかった。
最後の別れ。
私は、独立して、初めて作った名刺を棺に添えました。
そして、泣きながら言いました。
「今、仕事ができているのは、お師匠のおかげです。お師匠に教わった全てが今の私を生かしてくれています。ありがとうございます」と。
今の時代、師匠制度は古臭いのかもしれません。
しかし、私はその師匠制度によってのみ、社会人としての基礎を学び、手に職をつけることができたのです。
本当にありがとう。
今もあなたの技が活きています。
熱意を込めて 尾本晃史。